どれだけ群れれば気が済むのか
庭に降り立つすずめは、徐々にこちらに慣れてはくるが、近づくことはできない。
この前 熱田神宮に行ったときは、すずめを間近で見ることが出来た。人間の存在を気にしていないレベル。参道で何かを啄んでいるすずめを人が避けて歩く具合。マイペースすぎてかわゆす。マジしあわせ。
参道ではにわとりが走りまわって、コケコッコ― と鳴いていて、参詣者は「完全なるコケコッコーを聞けた…」とか言っていた。
すずめのケンカ
稲が刈られて、庭やベランダに雀が戻ってくる季節となりました。
ちゅんちゅんちゅんちゅん ゆってます。
静物か動物か
「花より団子」なので、「花か雀かどちらを選びますか」と聞かれても露店の食い物以外どうでもいいだろう。しかし団子でお腹が膨れて「もうなにもいりません」となり、消化が進み、やっと意識が明瞭になってきた頃おいに、「花か雀かどちらを選びますか」と聞かれました。うーんそうだなぁ。そこで雀だと答える人は、動物(動きのあるもの)にミラーニューロンが働きやすい傾向があるのだと思う。一方、庭とか花を細やかに眺めて楽しむ事を選ぶ人は動体には反応しない様子。その好みは年齢に伴って移り変わるものと思ふ。
源氏物語にて、若紫が「籠に閉じ込めてた雀が逃げちゃったの」と訴えてくるのを見て「いい歳こいて雀と戯れていらっしゃる…。籠に閉じ込めるなんて、殺生なことだとまだわからないのですか?」と尼出身の母親が行く末を心配するシーンがあった。そんな若紫を源氏は見初めるわけだが…(立場や性別で180度評価が異なる)。
どちらが優れているとか正しいとかいう種類のものではないが、自分は雀が可愛いと思えるうちには可愛いと思っておいてほしいと思う。その情念はその時期を逃すと一生手に入らなくなるかもしれないから。(サイコパスの人はいいけどね。脳の機能がそういう風だから。)
すずめの記憶力

今回は短期記憶についての検証です。
そこで俺が米を撒くと、お腹を空かせていたのか我慢しきれなくなって、チュンチュンチュンチューン!!とか、ピーピーピーピー!!とか甲高い声を出して仲間のところに一目散に飛んでゆく雀がいる。「大変だよーーー!大変なことが起こったよーー!!」と。必死である。
je pense.. 仲間のところに飛んでいく間に、な ん の 為 に 飛 ん で い た か を 忘れてしまうのだと思う。
おそらく仲間のいるところに辿り着くと安心して「戻ってきたよー」とぬくぬくと体をすり寄せているのだろう。
たとえ仲間のいる地点までは覚えていたとしても、すずめは言葉をしゃべれないので、
すずめじゃないけど
庭で、名前のわからない鳥が空見上げてました。
ひょこひょこ歩いていました。
この季節、山の上のお寺ではツバメが巣を作っていて
うんちだけは落ちるから下に段ボールを置いて
参詣者の迷惑にならないよう寺方に保護されてる。
かわいいなぁと見てたら僕の頭上を元気にかすめいてきた。
お寺の霊気が濃厚だからかその飛び方が意識的である。
鳴き声がまたかわいらしくて透明な丸っこい声を出す。
すずめもいてすごいワンパクな声を出して飛んでいる。
本堂の屋根の上にはラーミアみたいな白い鳥が飛んでる。
その飛び方がデジャブを誘うようで幽遠。
山の歩道ではウグイスが鳴いていた。
その声が澄んでるし鳴き方がうまい。
ウグイスは子供のころはうまく鳴けない。
練習をして徐々にうまくなってゆくようだ。
『まだうまく鳴けないウグヒス』とは耽美的ですな。
今年は何月まで庭に降り立つか
昨年は六月になると途端に雀がどっか行っちゃった。
三日間ほど神饌をお取り替えするのをさぼったらいなくなった。
冬は田んぼが枯れてるので食糧を探すのに精一杯なのだけど、
夏になると緑が萌えだし虫もボウフラも元気いっぱいになるので
すぐに田んぼや畑に行ってしまうのです。
モズが家の中に入ってきた
モズが家の中とびまわってた。
ガラスにぶつかり、カーテンの中に迷い込んでいるところを捕獲。
2枚目は、捕まってしまい諦観の境地に達しているモズです。
小鳥は本当に賢いし、ありのままに生きている。
このあと庭に行くと、逃げていきました。
モズにふれることができて、愛情が復活。
毎日水米塩の神饌をとり替えていて良かった。